本日たまたま天霊新報を読んでいましたら、秋季大祭での行の中で教えて頂いた「大神に仕える」という事について記事が出ておりました。この記事は当時の会員の方が投稿されたものですが、よくまとまっており私が感じた事がそのまま記載されている部分がありましたので、参考としてこれを抜粋し、現代の仮名遣いに直したものをあげさせて頂きます。
「仕える精神が神法の真髄」(天霊新報第41号 昭和49年6月8日発行)
神法を慕ってこられ、病気、商売、運勢等を伺いに来られた方達に、大神は霊媒を通じて種々ご指導をした後でそれを解決したければ「どうだわしに仕えてみないか」と必ず言ってくださる。
大神に「仕えてみないか」と言われるのであって、わしを拝めとか、信心信仰しろとは言われないようであります。この点が大変微妙で含みの多い言葉のようであります。従来の宗教や有難いと自称する神々とは大変違っている事に気づくのであります。
正神の大神の「仕える」と言われる御心を考えてみたいと存じます。
現在の人間はテレビ、マスコミの情報網を通じてあまりにも安価に種々の知識が吸収されるのに慣れすぎ、中には猥雑な知識が多くて、これに非常に害されているようである。あまりにも世の中が安直であるかのように考えている人が多くなってきて世界にはまだ自分の理解できぬ深い秘密が多く隠されているという感情を失ってしまっているようであります。
全ての事が人間には分かってしまっており、全ての人間は皆自分と同じ浅い程度の知識の人間である。現代人は皆同じようなものと信じているようであります。全ての人間の同一性という信念は最も浅く低いところで考えているようであります。その魂の中に言い換えれば人格の中に無限に深いものを秘めている人間もいる。また、そのような人の魂の深さを学び取ろうという人生観を現代の人はすっかり忘れてしまったようである。魂の深さを学ぶ取るために「入門」という仕組みがあったのであります。
この「入門」も最近は安い本で何でも入門書が出ているのは前述のように誠に世の中が安直になっているのであって、このような本一冊で何が師と仰ぐ人の魂の深さまで学びとる事が出来るものかと思われます。「入門」という事には人格的な響きが含まれている。師の客観的な学問あり、芸術だけではなく師の人格の中に凝集された学問芸術を学びとる事であり、人格を学ぶために師の門に入るという事でありましょう。
「入門」という事はそれ故に非常に厳しいものがあろうし、その門に入れば、そこの権威と価値体系に従って新たな出発をしなければならない。宗教的にいうなら汚れた世俗から縁を切って、そこの権威と価値体系に従うという事になる。それに馴染めない人は元に帰らさせられる。すなわち還俗であり破門であります。
神社の門、すなわち鳥居を入るという事は入門であります。神社の門すなわち鳥居はいつでも開かれており、誰でも自由に入る事はできる。そこから清浄な世界、神の世界が始まるという「しるし」でありましょう。鳥居をくぐった人が心を清めて玉砂利を踏んで本殿に近づき心を高めて神様に尊敬の念を捧げるという事になるのであって神域に入って神の心に合えば「入門許可」でご指導ご加護があるであろうし、神の心に合わない人は還俗、破門という事で神は相手にしてくださらないという事ではないでしょうか。
ここに前述の大神が「仕えよ」と教えられる大神の御心というか御意図を充分察して大神に接する人間側の心の持ち方、考え方の大切な点があるのではないでしょうか。
形や作法がいかに真剣真面目そうでも大神に通じる精神のない人は内容的には破門、還俗させられるのと同じ事だからなのであります。
現代人の多くが失ってしまった感情が「尊敬」の感情であり、この基本となる数霊(かずたま)の教えるところの「順序」、「序列」の考え方の欠いている事であります。仕える心組みの基本条件は「尊敬の念の有無」にありましょう。尊敬の念と言っても相手のある事で尊敬に値しないものまで尊敬するという事は盲従(もうじゅう)の尊敬だから本当の意味の尊敬とはならない。尊敬に値しない迷霊を尊敬する各種迷霊宗教がその一つの例であります。
大神の言われる「仕える」という観念は封建社会における君と臣下、主人と雇われ人の関係のような仕えるではなく、師弟の関係でもなく無理に例をとるなら親子の関係ごとき「仕え」でありましょう。この世のものは全て大神様方の創造され運行されているのでありますから人間とても大神のつくられ生かされているものであり大神の御心は創造された全てのものが我が子であり、子は調和を保って繁栄する幸福を願っておられると同時に自然神、人格神のすべての神々がこの為に日夜お働き続けてくださっているのであります。俗な言い方をすれば人間と大神との関係は親子の関係に近いものであり、人間は親たる大神に仕えるのが当然の道であります。
魂清浄の神法の信奉者は当然の事を当然行っているのでありますが、現代は当然の事すらできない輩(やから)の方が多い世の中であり、ひどいのは親を養老院に送り込むのが当然の事のようになってしまったほど世の中が狂ってしまってきているのであります。
ましてや大神に仕えるという人間としては当然のつとめができなくても少しも不思議ではないような世相になってしまっているのであります。間違った狂った人間の方が多いので正しい当然のつとめをしている神法の信奉者が肩身の狭いような思いをするようでは困ったものであります。自信を持って堂々と邁進してもらわねばなりません。
人間界では親より子の方が立派であり、よく子が家の親は尊敬するに足りないなどと家庭内で紛争を起こす事もありますが、神様方は最高絶対の存在ですから人間の方が立派だというような紛争の起こる心配は全くなく常に安心して尊敬できるものであります。人間においては人間は皆不完全な存在で全てが日に日に進歩発展してゆかねばならないのですから後からこの世に出てきた子供の方が親より進んでくるのが当然でありまた、これでなければならないのであります。
しかし、子供の方が進んで立派になっても数霊(かずたま)の順序からいえば親は親であり、子供は子供なのであって、この真理は変える事はできないし、子供が親に仕えるのは当然であるし神の理(ことわり)であります。真理に合う生き方をすれば当然繁栄するし、真理に反した生き方をすれば破滅がまているという事も、また理の当然であります。
世の親は大神ほど立派ではないから仕える方からすれば難点もあるかもしれないが仕える気持ちは、まず親に仕える事から現世的に身についたものとなるのでありましょう。
大神方の御心は救霊であり救人であり、すべてのものが調和と平和と繁栄の現世を送ることを願っておられるのですから、この御心に合う修行をする事が大神に仕えるという事でありましょう。
まず祈言(魂清浄ののりと)をあげれば大神達が迷霊を昇天させてくださって霊の救いができる。同時に人間の体も本人霊も清まって健康で能力を十分に発揮できるようになり幸せになるという事であります。神の与えられた寿命と財を十分現世で消費尽くす事が一番孝行であると教えられているのですから大神の望まれている人間になる努力がすなわち大神に仕える第一歩でありましょう。ですから祈言を上げて修行をするという事は、病気を治してくれ、商売をうまくしてくれと御利益目当ての心構えでやるのではなく、素直に大神に仕える心構でやれば、その使える心を愛でて大神が働いてくださるから御守護が出てくるという順序になるのであります。
ところがとにかく初歩の方は御利益を授かりたいから大神のところに来るのであります。ご利益だけの目的の修行は心の奥に「神を利用する」「神を使う」心がある。このような心が見えるから大神も用心されて本当に本腰を入れて働いては下さらないから試しに見せてくださる程度のところで足踏みをしてしまって多く授かる事はできない。
ですから、御利益を多く望む人は、まず人間の方から誠心誠意素直に大神に仕えることであります。
すなわち、「仕える行」をして大神から信頼される人になることでありましょう。
大神が本当に信頼してくださったら予想以上のお力もご利益も授かることは間違いありません。大神に仕えるということは救人救霊の行をすることであり、神法を広めることであって人に仕えることではありません。ましてや迷霊に仕える類の行をしてはなりません。
今のところ残念ながら大神は、殆どの人間を信頼されてはいないのではないでしょうか。大神から信頼されるような修行をしている人がいないという事と大神がある程度期待をかけられても途中でこの期待を裏切るようなことをしてしまう人間が多いということでもありましょう。このような御体験をいくつもしておられるので、現在の人間は全く信用しがたい連中ばかりだと嘆いておられるし、大神の方で修行している人達をテストされている期間のような気がしますがいかがなものでしょう。
現在は柱になる人の養成期間であると大神が教えている真意もこの辺にあるのではないでしょうか。柱になってもらいたいと大神が期待されている方々の責任は重いと存じますので自重といっそうのご努力を願いたいと存じます。神法の信奉者は皆身内であるという教えも、もう一度よく考えてみて貰わねばなりますまい。
大神を親とした身内は皆兄弟たち子供たちであります。力を合わせお互いに切磋琢磨しなければならないし大もとは一つであるから自分もそのもとにまとまらなければならない。兄弟が争ったり、上下の順序を無視したり、抜け駆けの功を競うような事は破壊と堕落への道であり、迷霊に操られている行為であることを悟らねばならないでしょう。
人の治しをする事も皆すべて大神の御働きであり、その人が自分の力で治すのではないことを十分知っておいて貰わねばならない。大神に仕え大神が使い易い人になる事が修行を積んだことになるのであります。決して自分の力であると思っても考えてもなりません。大神が使い易いようになれば日夜大神の指導が得られ迷霊の働く余地がなくなるからその人の日常生活の言行も一致してくるようになり、正しい人間としての言行が自然と身につくことになると存じます。言う事と行いが一致してきて自分の言行を後から弁解がましく言い訳しないで済むような人間にならなければならないはずです。
躾(しつけ)の事はあまり厳しくしなくても良いというような考えの人もいるようですが、修行ができて大神の日夜の指導が受けられ、大神の御心と一体でいられるような人ならとにかく、そうでない連中ばかりなのであるから、神の道に「入門」した者にはそれなりの躾も大切なことでありましょう。現世的に小笠原流の行儀作法をどうこうということばかりが躾ではなく、神の教えにのっとった躾は大事なことであり、それは人として日常生活に欠く事のできない躾であり、躾から修行の助けになる方法もあるわけであります。これも神理の一つでありましょう。人格の向上が修行目的の一つであることを考えれば当然のことでありましょう。
身内には身内として守らなければならない躾もあり、親に仕えるには親に仕える躾もあるはずです。大神に仕える躾も同じであって躾を軽んずる者が本当に大神に仕える心が掴める筈がないのであります。
大神に仕えることを本当に体得した者が修行ができた人であり、大神から信頼され現世の御利益も多く授かるし、良い現世の実績を残すことになるのでありましょう。重ねて言うようでありますが、大神に仕えるという事は、祈言を上げて救霊すると同時に自分も浄めてもらい、大神の与えられた寿命財産も十分獲得し有効に使う事であり、次にはこれを多くの人に伝えて救霊救人の運動を広める事であります。
よく自分がやって良くならなければ人にすすめられないという考えの人がおりますが、これは重大な誤りを犯しているようです。
本人はいかにも謙虚であり修行未熟とへりくだっているようですが、大神を信じ大神に仕えるという確信がないという事と大神を疑っている本心がどこかに潜んでいるのではないか、病を治す事も商売を繁盛させる事も種々の祈願を成就させて頂くのもすべて大神の働きである。人間が生きている事さえ大神の御力であって、この正神の大神に仕える修行をしている者が改めてその結果を確かめない内は人に話す事ができないという事は自分本位の考え方であり、大神の御力を疑っている心がどこかにあるから出てくる言葉ではないでしょうか。
人間の方から大神を全幅的に信じないようでは大神から信頼して頂けないのは当然であり、大神達が本腰を入れて働いてくださらないのも当然であり、誠に中途半端な修行、仕え方をしていると言わなければならない。本当にやるんだったら大神と真剣に取り組む覚悟でなければ良い結果も早くは出てこないのも当然の事であります。
大神に素直に仕える気持ちになればただ人に教えてやるだけで大神の御働きを受けられる人が出てくるのでありますから、救霊救人の大神様の御心にかなう行為をした事になるのであります。教えてあげた方がやるか否かはその人自身の実績に関係する事で、すすめた方の実績は大神様は十分認めてくださるのでありましょう。
その判断は大神様の下されるもので人間の勝手に考える問題ではありません。
大神に仕える行をするのは道場の神前で行をするばかりが行ではなく日常生活の場、職場で働く場所でやるのが大切であります。職業を通じ、日常生活を通じて毎日の行をする事が最も大切な事でありましょう。清い素直な心で大神に毎日毎晩仕えるならば、修行も大進歩すると共に授かるものも多く授かり、心安らかな平和な充実した生活が楽しめる事は絶対間違いありません。御精進をお祈りします。